ネット倫理

熊本地震から数日が立ち、ネット上では芸能人に対するある特定の発言が注目されるようになった。

「不幸自慢にしかきこえない。」

「ニュース見てるの?」

「芸能人だからって特別扱いされると思うな!」

このようないわゆる『不謹慎狩り』と呼ばれるものだ。

ここでは不謹慎狩りについては詳しくは触れないが、一言だけ言わせてもらうと、なんともかわいそうな人たちだと思わずにはいられない。

 

さて、『不謹慎狩り』事態も大きな問題であるが、その裏にある背景について考えていこうと思う。

それは、ネットの気軽さである。不謹慎狩り以外にも、さまざまな例を挙げることができるが、ネット上にはあまりに多種多様な意見が溢れてしまっているように思う。いろいろな意見があるのはいいことだと一見考えてしまうかもしれないが、明らかに的を外していたり、突飛な常識による意見だったり、また明らかに面白半分な悪意のこもった発言だったりが増えているように思う。

 

なぜそのようなものが増えているのか。

その一つとして、たびたび問題として指摘されるネットの匿名性があるだろう。顔が見えないから、自分も相手を現実では誰だかわからないから、相手の気持ちを考えない軽率な発言が行われるのだ。

そして、2つ目はツイッターだからこそであるが、発言が呟きとして捉えられてしまうのである。これは感覚的なものだが、ツイッターの投稿は気軽なものであることが多い。

過去にもツイッターでは、アルバイトの軽率な投稿により頻繁に炎上している時期があった。また飲酒運転していると自慢げにツイートして逮捕されたものもいる。

決してツイッターを悪くいうわけではないが(実際にツイッターは正しく使えればとても優れているものだと私は考えている)、その呟きという特性上ネット上での発言に対する責任や重みが薄れていくことに拍車をかけているように感じる。(2015年12月時点で、単純計算で日本人の4人に1人がアクティブユーザーであるとTwitter Japanが発表した。)

このような事態になるとネット規制という方向によく話が進んでしまうが、今日ネットと生活は限りなく影響しあっている。それゆえネットを規制するのではなく、ネットを使うのに十分な倫理観をすべての人に広めることのほうが重要なのではないのか。ネットに対する経験が足りていなかった昔とは違い、今日ではネットネイティブと呼ばれる人々が、大人へと成長してきている、そんないまだからこそ、‘‘ネット倫理‘‘なるものを、みなで試行錯誤し、今の子供たち、そしてこれから生まれてくる子供たちに正しく浸透させることのできる社会としての基盤づくりをするべきではないだろうか。