格差を考える

格差の問題について、ツイッターや5chでよく話題に上がっているのを目にする。「格差は昔からあるもので、格差があるのは当然のことである。」とする格差容認派と「裕福な暮らしをする人がいる一方で、毎日の生活に四苦八苦している人がいるのはおかしい。」という格差否定派の殴り合いである。さてどちらが正しいのだろうか。

一概にどちらが正しいとは言えないが、この殴り合いの論点が「皆がまったく同格であるべきか」であるとするならば、格差容認派に軍配が上がるだろう。童話『アリとキリギリス』を例に考えるなら、アリと比べてキリギリスが生活に苦労するのは当たり前であり、アリがキリギリスに食糧を分け与えるべきと考える子どもはいないであろう。

 だからといって、全面的に格差を容認し、格差に関してはほったらかしで良いというわけでもない。格差が生まれるのには必ず原因があり、その原因はほったらかしにするべきではない。宝くじを例に考えてみよう。

 今、A君とB君はゲームセンターにいる。2人は5分以内にメダル1枚を手に入れなければ、今日の晩ご飯が抜きになってしまう。2人の両親はずいぶんと厳しい?のである。育ち盛りの2人にとって、夜ご飯にありつけるかどうかは、死活問題である。2人は無一文で、メダルを得るにはゲームセンターのゲーム機の下に落ちているメダルを見つけて、拾うしかない。A君がゲームセンターの左半分を、B君が右半分を探しまわることが両親によって決められた。さて、2人が5分間必死になってメダルを探した結果、A君だけがメダルを見つけることができ、B君は晩ご飯を逃すこととなった。

 さて、この話を聞いた格差容認派の人たちは、B君が夜ご飯を逃したのは、かわいそうなことだが、仕方がない、とするだろう。しかし、この話には裏がある。実は、このゲームセンターの左半分はメダルコーナーで、右半分は現金を投入するタイプのゲーム機が設置されているコーナーであったのだ。そのため、B君がメダルを探した右半分には、そもそもメダルは1枚も落ちていなかったのである。この場合も、B君が晩ご飯を食べられないのは、仕方がないことといえるだろうか。

 

 確かに格差が存在すること自体は、当然の事であろう。皆が平等であることは不可能であるし、そうあるべきとも言えないであろう。しかし、その原因が当人の努力ではなく、外部要因(親の経済力など)として与えられたものであったならば、その格差は放置されるべきではない。

 現実の格差を考えることは非常に難しい。優秀な人に多くの報酬が与えられるのは当然なことであるが、みな全員に等しく優秀になる可能性が与えられていないのも事実である。だからこそ、生活保護といった考え方が存在するのだろう。現実の格差問題を根本的に解決することは不可能である。