勉強と学び

小学生から高校生の間、よく「勉強しなさい」と言われた。この忌まわしき思い出に対し、共感してくださる人は少なくないだろう。しかし、最近ふと感じた。大学生になって、そもそも勉強という言葉を聞く頻度が減った。代わりに、学びという言葉をよく耳にするようになった。勉強と学び、この2つには、どのような違いがあるのか。大学生になって、勉強という言葉から疎遠になったということは、勉強は、高校生までが行うものなのか。だとすると、学びは、学生や社会人など、中等教育を受け終えた人が行うものなのか。

 勉強という言葉は、「強い勉める」と書き下すことができる。勉強と聞くと、テスト勉強や資格の勉強が真っ先に思い浮かぶ。とすると、テストでいい点を取ることや資格にうかることといった目標を達成するために必要な取り組みが、勉強だといえるだろう。必要という言葉には強制力が伴ってくる。英単語を覚えたくなくても、テストでいい点を取るためには覚えなくてはならない。

それに対して、学ぶの語源は、一説には「真似る」だと言われている。真似るためには、お手本が必要となる。さらに、学ぶと聞くと、学習(習い学ぶ)や学問(学び問う)が連想される。とすると、明らかになっていることを知り、理解することが学びだといえるだろう。すでに明らかになっていることを、先生や本から教えてもらい(習い)、それを理解する(真似る)ことが学習であり、学びを通して新たに問いを展開することが学問である。

 学ぶことは、明らかになっていることを知り、理解することだと上記した。私は、この「理解すること」こそが、学びにおける重要かつ難しい点であると考えている。例えば、日本史の教科書に、「ヤマト政権における五王の一人、武とは雄略天皇のことである」と記述されていたとしよう。これを読んで、武=雄略天皇と暗記することを学びだといえるだろうか。私は、違うと考える。なぜならば、この過程には、理解することが足りていないからだ。では、ここでいう理解とは何か。それは、武=雄略天皇となる理由を知ることである。これを理解して、初めて学びとなる。とすると、児童や生徒に学びが難しい理由がわかる気がする。倭王武の例からしても、理解の工程において、多大な知識と理解力を求められることが分かる。それに比べ、勉強は(やる気さえあれば)容易である。倭王武の例であれば、それがテストの為であれば、武=雄略天皇と暗記するだけで良いのである。

 以上を踏まえると、究極的な勉強の目的は、学ぶために必要な知識・能力を得ることだといえるのではないだろうか。そして、その勉強をするために、テストや資格といった動機付けが存在すると考えられる。では、今日の大人(中等教育を受け終えた人)は、学ぶことができているか。少なくとも、自分の周りの大学生を見ると、そうだとはいえないように思う。しかし、その最大の原因は、勉強不足ではなく、そもそも学ぼうとする気持ちがないためであるように感じる。では、学ぶことの動機とは何か。それは、知りたいという欲求、疑問である。本来、小学生にも満たない幼児でさえ「なんで?なんで?」と、疑問を持つ力があるはずだ。それが、大人になると、その疑問を持つ力が弱まってしまっているような気がする。子どもの頃の純粋な気持ちを、保ち続けることは容易ではない。

格差を考える

格差の問題について、ツイッターや5chでよく話題に上がっているのを目にする。「格差は昔からあるもので、格差があるのは当然のことである。」とする格差容認派と「裕福な暮らしをする人がいる一方で、毎日の生活に四苦八苦している人がいるのはおかしい。」という格差否定派の殴り合いである。さてどちらが正しいのだろうか。

一概にどちらが正しいとは言えないが、この殴り合いの論点が「皆がまったく同格であるべきか」であるとするならば、格差容認派に軍配が上がるだろう。童話『アリとキリギリス』を例に考えるなら、アリと比べてキリギリスが生活に苦労するのは当たり前であり、アリがキリギリスに食糧を分け与えるべきと考える子どもはいないであろう。

 だからといって、全面的に格差を容認し、格差に関してはほったらかしで良いというわけでもない。格差が生まれるのには必ず原因があり、その原因はほったらかしにするべきではない。宝くじを例に考えてみよう。

 今、A君とB君はゲームセンターにいる。2人は5分以内にメダル1枚を手に入れなければ、今日の晩ご飯が抜きになってしまう。2人の両親はずいぶんと厳しい?のである。育ち盛りの2人にとって、夜ご飯にありつけるかどうかは、死活問題である。2人は無一文で、メダルを得るにはゲームセンターのゲーム機の下に落ちているメダルを見つけて、拾うしかない。A君がゲームセンターの左半分を、B君が右半分を探しまわることが両親によって決められた。さて、2人が5分間必死になってメダルを探した結果、A君だけがメダルを見つけることができ、B君は晩ご飯を逃すこととなった。

 さて、この話を聞いた格差容認派の人たちは、B君が夜ご飯を逃したのは、かわいそうなことだが、仕方がない、とするだろう。しかし、この話には裏がある。実は、このゲームセンターの左半分はメダルコーナーで、右半分は現金を投入するタイプのゲーム機が設置されているコーナーであったのだ。そのため、B君がメダルを探した右半分には、そもそもメダルは1枚も落ちていなかったのである。この場合も、B君が晩ご飯を食べられないのは、仕方がないことといえるだろうか。

 

 確かに格差が存在すること自体は、当然の事であろう。皆が平等であることは不可能であるし、そうあるべきとも言えないであろう。しかし、その原因が当人の努力ではなく、外部要因(親の経済力など)として与えられたものであったならば、その格差は放置されるべきではない。

 現実の格差を考えることは非常に難しい。優秀な人に多くの報酬が与えられるのは当然なことであるが、みな全員に等しく優秀になる可能性が与えられていないのも事実である。だからこそ、生活保護といった考え方が存在するのだろう。現実の格差問題を根本的に解決することは不可能である。