なぜ勉強する必要があるのか

 「なぜ勉強する必要があるのか」。生徒から教師にこのような言葉が投げかけられるのは、決して稀なことではないだろう。口には出さなくても、同じようなことを思った経験がある生徒は少なくないはずだ。「将来役にたつから」、「勉強で苦労した経験が人間性を成長させるから」と(生徒を置き去りにした)それらしい回答で対応することは容易である。しかし、「なぜ勉強する必要があるのか」という悩みは、まさに生徒の生活に直結している切実生を伴ったものであり、教育機関である学校における悩みとしてはまさに的の中心を得る一投である。とするならば、「なぜ勉強する必要があるのか」という生徒の悩みに対して、少なくとも生徒が納得できるだけの教員の対応を考える意義は明らかである。

 納得を得るためには、まず相手の悩みに潜む背景を理解する必要がある。「なぜ勉強する必要があるのか」という生徒の悩みの背景には、①勉強している内容が理解できないことや②勉強している内容がつまらないと感じること、また③勉強しても役に立たないと感じていることが挙げられる。①と②については、心理学における防衛機制の1つである「合理化」から説明できる。勉強についていけない現実に対し、勉強する必要がないからそもそもついていく必要がないと考えたり、強いられて行う勉強に苦痛を感じるため、必要性という視点から強制力を否定しようとしたりすることで、自分の身を守ろうとしている。そのため、①と②の背景を持つ生徒は、勉強する必要性ではなく、勉強している内容を理解できるようになること、また自分の興味・関心にあった内容や達成感を実は求めているのである。ゆえに、そのような生徒への対応も、必然的に上記のような真の悩みを解消するための手立てが効果的となる(当然この手立てを具体的に考えることは重要であるが、紙幅の関係上、別稿に譲るとする)。

 上記の手立てを基に、①と②の背景を有する生徒の悩みはさしあたり解消できたとしよう。すると、残るは③(勉強しても役に立たない)である。実は、①と②が解消された生徒でも、後々③の背景から、再び勉強をすることに疑問を持つ可能性が少なくない。そのため、③の背景というのは、本稿における最も核心的な対象と位置づけられる。この③の背景から勉強する必要性を感じられないとする生徒の視点は、大きく2つに大別される。1つ目が、勉強の内容についての視点である。これは、生徒が、勉強する内容を実生活と結びつけられていないことや、勉強=知識の単なる暗記という勉強観を持っている場合である。2つ目が、将来に対する視点である。これは、今勉強していることが将来どう役に立つのか分からないと生徒が感じている場合である。これらの場合が共有している問題は、生徒の勉強観が負の印象を伴っている点である。この③の背景を持つ生徒に対し、勉強が役に立つ具体例を示すことは、もちろん対応策の1つである。しかし、生徒の納得を得るという本稿の主題からすると、説得的ではあっても、納得を得るのは難しいという点で、具体例を示すだけという対応はあまり魅力的ではない。そのため、例えば、「そもそも勉強とは何か」、「なぜ勉強するのか」といったお題で授業内に対話的活動を行うことで、生徒の勉強観に揺さぶりをかけていくことが効果的な取り組みの1つであると考える。

 中教審は、新学習指導要領の改訂の方向性として、指導内容に関わる「何を学ぶか」という従来の視点に加え、「どのように学ぶか」、「何ができるようになるか」という視点を打ち出した。生徒と「そもそも勉強とは何か」、「なぜ勉強するのか」というお題について対話を行い、「勉強は、机で教科書とノートを開き、ペンを手にするものなのか」、「定期テストや入試で高い点をとることができるようないなることだけが勉強の目的なのか」といった問いについて考えを深めていきたい。

GIGAスクール構想と教員が取り組めること

・コロナ禍で推進したGIGAスクール構想

 コロナ禍の学校では、「児童生徒1人1台端末の整備とネットワーク環境の整備」が一挙に推し進められた。その背景には、オンライン授業を行うために、生徒一人一人にICT環境を整備する必要性や先生も授業づくりを一から模索していく必要性があった。

 「児童生徒1人1台端末の整備とネットワーク環境の整備」とは、文部科学省がかねてから提唱していたGIGAスクール構想の土台である。タブレット端末の普及やWi-Fi環境の整備が進んだ今、GIGAスクール構想自体をさらに推し進めていくために、授業者である教員は何ができるだろうか。

GIGAスクール構想の目的・背景

そもそもGIGAスクール構想のGIGAとは、Global and Innovation Gateway for allの略称である。日本語に直訳すれば「全ての人を対象にしたグローバルと革新への扉」となる。グローバルと革新への扉が何を意味しているかは分からないが、少なくともGIGAスクール構想は、タブレットの導入とネット環境の整備にとどまらない目標を掲げていることがわかる。では、GIGAスクール構想の目的とその背景にはどのような課題があるのか。

 文部科学省のHPを見ると、GIGAスクール構想の目標として 「1人1台端末と、高速大容量の通信ネットワークを一体的に整備することで、特別な支援を必要とする子供を含め、多様な子供たち一人一人に個別最適化され、資質・能力が一層確実に育成できる教育ICT環境を実現する」、「これまで我が国の教育実践と最先端のICTのベストミックスを図り、教師・児童生徒の力を最大限に引き出す」とある。つまり、GIGAスクール構想の目標とは、多様な子供たち一人一人に個別最適化され、資質・能力が一層確実に育成できる教育ICT環境の実現ということである。

 では、GIGAスクール構想が掲げられるようになった背景はどうだろうか。前述の目標をみると、2つのポイントがあるように読み取れる。1つ目は、「資質・能力のより一層確実な育成」が必要であることだ。この資質・能力とは、いわゆる「知識及び技能」、「思考力・判断力・表現力など」、「学びに向かう人間性など」のことである。

 2つ目は、教育の「個別最適化」だ。個別最適化のねらいは様々に挙げられるが、例えば、生徒一人一人の学力や興味・関心にあった課題を個別に与えることで、生徒の主体性を引き出し、教育効果を高めることがある。ちなみに、この主体性は、前述の資質・能力の一つの柱である「学びに向かう人間性など」に含まれている。

・教員の取り組みの方向性

 このようにみていくと、新しい流行のように感じられるGIGAスクール構想も、確かにその手段は新しいものかもしれないが、目指す目標自体は普遍的なものであることが分かる。とするならば、教員が今後取り組むべきことは、GIGAスクール構想を推進するための手段であるICT機器や児童生徒に身に付けさせたい資質・能力についての理解を深めていくことである。特に、後者について、そもそも思考力とは何か、主体性がある生徒はどのような行動をとるのかといったことに対する自分なりの考えを深めていくことが重要だ。

勉強と学び

小学生から高校生の間、よく「勉強しなさい」と言われた。この忌まわしき思い出に対し、共感してくださる人は少なくないだろう。しかし、最近ふと感じた。大学生になって、そもそも勉強という言葉を聞く頻度が減った。代わりに、学びという言葉をよく耳にするようになった。勉強と学び、この2つには、どのような違いがあるのか。大学生になって、勉強という言葉から疎遠になったということは、勉強は、高校生までが行うものなのか。だとすると、学びは、学生や社会人など、中等教育を受け終えた人が行うものなのか。

 勉強という言葉は、「強い勉める」と書き下すことができる。勉強と聞くと、テスト勉強や資格の勉強が真っ先に思い浮かぶ。とすると、テストでいい点を取ることや資格にうかることといった目標を達成するために必要な取り組みが、勉強だといえるだろう。必要という言葉には強制力が伴ってくる。英単語を覚えたくなくても、テストでいい点を取るためには覚えなくてはならない。

それに対して、学ぶの語源は、一説には「真似る」だと言われている。真似るためには、お手本が必要となる。さらに、学ぶと聞くと、学習(習い学ぶ)や学問(学び問う)が連想される。とすると、明らかになっていることを知り、理解することが学びだといえるだろう。すでに明らかになっていることを、先生や本から教えてもらい(習い)、それを理解する(真似る)ことが学習であり、学びを通して新たに問いを展開することが学問である。

 学ぶことは、明らかになっていることを知り、理解することだと上記した。私は、この「理解すること」こそが、学びにおける重要かつ難しい点であると考えている。例えば、日本史の教科書に、「ヤマト政権における五王の一人、武とは雄略天皇のことである」と記述されていたとしよう。これを読んで、武=雄略天皇と暗記することを学びだといえるだろうか。私は、違うと考える。なぜならば、この過程には、理解することが足りていないからだ。では、ここでいう理解とは何か。それは、武=雄略天皇となる理由を知ることである。これを理解して、初めて学びとなる。とすると、児童や生徒に学びが難しい理由がわかる気がする。倭王武の例からしても、理解の工程において、多大な知識と理解力を求められることが分かる。それに比べ、勉強は(やる気さえあれば)容易である。倭王武の例であれば、それがテストの為であれば、武=雄略天皇と暗記するだけで良いのである。

 以上を踏まえると、究極的な勉強の目的は、学ぶために必要な知識・能力を得ることだといえるのではないだろうか。そして、その勉強をするために、テストや資格といった動機付けが存在すると考えられる。では、今日の大人(中等教育を受け終えた人)は、学ぶことができているか。少なくとも、自分の周りの大学生を見ると、そうだとはいえないように思う。しかし、その最大の原因は、勉強不足ではなく、そもそも学ぼうとする気持ちがないためであるように感じる。では、学ぶことの動機とは何か。それは、知りたいという欲求、疑問である。本来、小学生にも満たない幼児でさえ「なんで?なんで?」と、疑問を持つ力があるはずだ。それが、大人になると、その疑問を持つ力が弱まってしまっているような気がする。子どもの頃の純粋な気持ちを、保ち続けることは容易ではない。

格差を考える

格差の問題について、ツイッターや5chでよく話題に上がっているのを目にする。「格差は昔からあるもので、格差があるのは当然のことである。」とする格差容認派と「裕福な暮らしをする人がいる一方で、毎日の生活に四苦八苦している人がいるのはおかしい。」という格差否定派の殴り合いである。さてどちらが正しいのだろうか。

一概にどちらが正しいとは言えないが、この殴り合いの論点が「皆がまったく同格であるべきか」であるとするならば、格差容認派に軍配が上がるだろう。童話『アリとキリギリス』を例に考えるなら、アリと比べてキリギリスが生活に苦労するのは当たり前であり、アリがキリギリスに食糧を分け与えるべきと考える子どもはいないであろう。

 だからといって、全面的に格差を容認し、格差に関してはほったらかしで良いというわけでもない。格差が生まれるのには必ず原因があり、その原因はほったらかしにするべきではない。宝くじを例に考えてみよう。

 今、A君とB君はゲームセンターにいる。2人は5分以内にメダル1枚を手に入れなければ、今日の晩ご飯が抜きになってしまう。2人の両親はずいぶんと厳しい?のである。育ち盛りの2人にとって、夜ご飯にありつけるかどうかは、死活問題である。2人は無一文で、メダルを得るにはゲームセンターのゲーム機の下に落ちているメダルを見つけて、拾うしかない。A君がゲームセンターの左半分を、B君が右半分を探しまわることが両親によって決められた。さて、2人が5分間必死になってメダルを探した結果、A君だけがメダルを見つけることができ、B君は晩ご飯を逃すこととなった。

 さて、この話を聞いた格差容認派の人たちは、B君が夜ご飯を逃したのは、かわいそうなことだが、仕方がない、とするだろう。しかし、この話には裏がある。実は、このゲームセンターの左半分はメダルコーナーで、右半分は現金を投入するタイプのゲーム機が設置されているコーナーであったのだ。そのため、B君がメダルを探した右半分には、そもそもメダルは1枚も落ちていなかったのである。この場合も、B君が晩ご飯を食べられないのは、仕方がないことといえるだろうか。

 

 確かに格差が存在すること自体は、当然の事であろう。皆が平等であることは不可能であるし、そうあるべきとも言えないであろう。しかし、その原因が当人の努力ではなく、外部要因(親の経済力など)として与えられたものであったならば、その格差は放置されるべきではない。

 現実の格差を考えることは非常に難しい。優秀な人に多くの報酬が与えられるのは当然なことであるが、みな全員に等しく優秀になる可能性が与えられていないのも事実である。だからこそ、生活保護といった考え方が存在するのだろう。現実の格差問題を根本的に解決することは不可能である。

ネット倫理

熊本地震から数日が立ち、ネット上では芸能人に対するある特定の発言が注目されるようになった。

「不幸自慢にしかきこえない。」

「ニュース見てるの?」

「芸能人だからって特別扱いされると思うな!」

このようないわゆる『不謹慎狩り』と呼ばれるものだ。

ここでは不謹慎狩りについては詳しくは触れないが、一言だけ言わせてもらうと、なんともかわいそうな人たちだと思わずにはいられない。

 

さて、『不謹慎狩り』事態も大きな問題であるが、その裏にある背景について考えていこうと思う。

それは、ネットの気軽さである。不謹慎狩り以外にも、さまざまな例を挙げることができるが、ネット上にはあまりに多種多様な意見が溢れてしまっているように思う。いろいろな意見があるのはいいことだと一見考えてしまうかもしれないが、明らかに的を外していたり、突飛な常識による意見だったり、また明らかに面白半分な悪意のこもった発言だったりが増えているように思う。

 

なぜそのようなものが増えているのか。

その一つとして、たびたび問題として指摘されるネットの匿名性があるだろう。顔が見えないから、自分も相手を現実では誰だかわからないから、相手の気持ちを考えない軽率な発言が行われるのだ。

そして、2つ目はツイッターだからこそであるが、発言が呟きとして捉えられてしまうのである。これは感覚的なものだが、ツイッターの投稿は気軽なものであることが多い。

過去にもツイッターでは、アルバイトの軽率な投稿により頻繁に炎上している時期があった。また飲酒運転していると自慢げにツイートして逮捕されたものもいる。

決してツイッターを悪くいうわけではないが(実際にツイッターは正しく使えればとても優れているものだと私は考えている)、その呟きという特性上ネット上での発言に対する責任や重みが薄れていくことに拍車をかけているように感じる。(2015年12月時点で、単純計算で日本人の4人に1人がアクティブユーザーであるとTwitter Japanが発表した。)

このような事態になるとネット規制という方向によく話が進んでしまうが、今日ネットと生活は限りなく影響しあっている。それゆえネットを規制するのではなく、ネットを使うのに十分な倫理観をすべての人に広めることのほうが重要なのではないのか。ネットに対する経験が足りていなかった昔とは違い、今日ではネットネイティブと呼ばれる人々が、大人へと成長してきている、そんないまだからこそ、‘‘ネット倫理‘‘なるものを、みなで試行錯誤し、今の子供たち、そしてこれから生まれてくる子供たちに正しく浸透させることのできる社会としての基盤づくりをするべきではないだろうか。

誇り

4月14日21時26分ごろ、九州の熊本県震度7地震が観測された。

余震や悪天候に見舞われる中、なによりも現地の人々の安全が最優先に考えられるべきである。そんななか、SNS上でなんとも残念な投稿を目にした。

現在、熊本の役所にはさまざまな地域や会社、団体から支援物資が送られている。これらは要請のあった各避難所に順次運び込まれていく。その規模は数百個単位で運ばれるとのことである。これを捌くには、たくさんの人手とスペースが必要である。そんななかマスコミの人々が群がることで、スペースを消してしまい、物資の運搬に支障をきたしているという信じられない事態が起きている。それに加え、取材のために熊本入りするヘリコプターの騒音のせいで災害放送無線や町内緊急放送が聞き取りづらくなってしまうことがあるとのことだ。

ネット社会の普及により、どこにいても最新の情報が取得できる便利な時代になった今、新聞記者や各テレビ局、ライターの人々は他社に劣らないよう必死に最新情報を得ることに必死になっているように感じる。確かに情報がより早く手に入るほうが消費者は好むだろう。被災者の状況を把握することで、よりよい援助が実現できるのも確かだ。しかし、その情報を得るために、被災地の人々の邪魔になるような行為を行っては本末転倒である。被災者の方々が段ボールで寒さをしのいでいる中、報道陣の人々は椅子に座ってパソコンやケータイを触っているという状況が現に存在しているらしい。また、SNSの普及により、被災者当人たちのたくさんのツイートが拡散、共有されている。とくに、緊急性の高いものは猛烈な勢いで拡散される。このような世の中において、報道関係の方々は、(特に緊急時において)自分たちには何ができて、何をすべきなのかということをもう一度熟考すべきなのではないか。

 

また、このことはなにも報道関係の方々だけのことではなく、私たち誰しもが、普段から、自分自身そして自分の仕事にもっと誇りを持って行動すべきなのではないだろうか。